『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する (光文社新書 1297)』
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嫉妬感情にまつわる物語には事欠かない。古典から現代劇まで、あるいは子どものおとぎ話から落語まで、この感情は人間のおろかさと不合理を演出し、物語に一筋縄ではいかない深みを与えることで、登場人物にとっても思わぬ方向へと彼らを誘う。それにしても、私たちはなぜこうも嫉妬に狂うのだろう。この情念は嫉妬の相手のみならず、嫉妬者自身をも破滅させるというのに――。(「プロローグ」より)政治思想の観点から考察。
目次
第1章 嫉妬とは何か(嫉妬の悪名高さ;嫉妬にまつわる物語 ほか)
第2章 嫉妬の思想史(嫉妬感情の捉え方について;快楽と苦痛の混合―プラトン ほか)
第3章 誇示、あるいは自慢することについて(不愉快な自慢話;ジラールの「羨望の三角形」 ほか)
第4章 嫉妬・正義・コミュニズム(ビョードーばくだん;正義の仮面をつけた嫉妬心 ほか)
第5章 嫉妬と民主主義(嫉妬は民主主義をダメにする?;民主社会で本領を発揮する嫉妬 ほか)
四つの戦略
隠蔽
否認
賄賂
共有
上方比較と下方比較
上方嫉妬と下方嫉妬
相対的剥奪
欠如と喪失(嫉妬とジェラシー)
さまざまな思想家が嫉妬を悪しきものと断じ、それを無くす方向へと啓蒙している。が、現代でもそれは残っている。
嫉妬が起こりえないような「平等」な社会は、はたして幸福か。
そもそも、そんな社会は存在しえるか。
平等主義と嫉妬
奢侈
奢ると驕る
誇示的閑暇、誇示的消費
常識を転覆するような自慢
こうした誇示のゲームを抜け出す方途があるだろうか。もしかするとそれは、「ぼくはチビでデブだけど、それが自慢なんだ」(『くまのプーさん』)といった、常識を転覆するような自慢ではないだろうか。他人との比較の彼方で、自らの特異性をありのままに肯定する、そうした純粋な誇示だけが、資本が押し付けるゲームからつかの間の離脱を可能にしてくれるかもしれない──たとえそれもまた新しい差別化の理論にまきとられてしまうにしても。
正義と嫉妬心
ロールズの正義の構想が持つもろさ
自分が嫉妬しているという事実に人は堪え難い→偽造が起こる→「正しさ」が求められる
丸山真男「引き下げデモクラシー」
p.219
政治学者の宇野重規が指摘するように、このプロセスにおいて「想像力」が果たす役割は決定的である。つまり平等化以前の社会にあっては、人々は主人を比較の対象とは見ていない。そのような社会にあって、不平等な状態に特別な正当化は必要とされないし、主人に対する嫉妬が生じることもないだろう。しかし、いったん「他者を自分と同類とみなす想像力」(宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』講談社選書メチエ、2007年、62頁)が解放され、主人が同じ人間であることに理解が及ぶやいなや、人々は政治的・経済的等々の不平等に不満を覚えるようになる。そのとき不平等はなんら正統性のないものとして現れるだろう。そしてこの「不平等を正当化するのに特別な理由が必要とされる」(60頁)ことこそ、民主的な社会の特徴なのである。 p.230 嫉妬は平等と差異の絶妙なバランスのうえに成立する感情なのである。
p.221
ハージによれば、「見込みのある人生」、つまり人間がうまくいっていると感じられるためには、その人が「どこかに向かっている」、前進しているという感覚(彼はこれを「想像的な移動性」と呼んでいる)が不可欠であるという。
p.221
ある意味で旅行や観光は、こうした移動性をフィクショナルに経験するものと言える。現実にどこかに移住できない私たちは旅行することで、別の暮らしや人生について想像的に思いを巡らせることができる。
そうした感覚を持てないことを「ドツボにはまること」とガッサン・ハージは表現している
移動性への妬み
"われわれの羨望はつねに、われわれが羨む人たちの幸福よりも長く続く"
ラ・ロシュフコー『箴言集』
p.235
「あなたはあなたのままでいい」であるとか、「他人と比較するのはやめよう」などと諭す嫉妬の対処法のような自己啓発本が巷には溢れている。こすいた言説のほとんどはずいぶんと無邪気なものだが、だからと言って無害なものとは言えない。この種の提言は、現実の嫉妬から目をそむけ、私たちがそれに真剣に向き合うことを妨げることがある。嫉妬心をきれいさっぱりなくすことができるかのように吹聴し、あたかも一部の人だけがときに罹患する熱病のように考えてしまうと、いずれ思わぬしっぺ返しを喰らうことになるだろう。
p.235
嫉妬が何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるからである。たいていの場合、私の嫉妬は他人には共感されない、私の嫉妬は私だけのものである。私は誰の何に嫉妬しているのか、なぜ彼や彼女に嫉妬してしまうのか。これは翻って、私がどういう人間であるか、私は誰と自分を比べているのか、私はどんな準拠銃弾のなかに自分を見出しているかを教えてくれるだろう。確かにそれは客観的な自己像とは言えないかもしれないが、ときに自分でも気がつかないもう一人の自分の開示してくれることがあるのだ。
p.240 多元的な評価軸
そのため、こうした一元的な社会よりも、多元的な価値観を許容する社会のほうが、嫉妬に耐性のある社会になる可能性が高い。そのためには評価軸をなるべく多様化し、社会的な序列を分かりにくくすることが重要になる。
『アナーキー・国家・ユートピア』p.405
社会が自尊心の格差の普及を回避するもっとも見込みのある方法は、諸次元の共通のウェイトづけを持たないことであり、その場合その社会は、様々な次元とウェイトづけの多様に異なったいくつものリストを持つことになろう。この事は、各人が、自分が結構旨くやれる次元で他人も一部はそれを重要と考えてくれるものを見出し、そうして特異なものとしてでなく自分に有利な評価をする、というチャンスを高めるであろう。
安易な序列化が難しくなれば、彼我の比較も容易ではなくなる。
p.240
個人レベルでの嫉妬はどうだろうか。まず、嫉妬と折り合いをつける方法として、各人が倫理的な精神的態度を涵養することで嫉妬を乗り越えることが挙げられる。たとえば哲学者の三木清は嫉妬を克服するために「物を作れ」と言う。物を作ることで自信が生まれ、それが個性になるというのだ。
『人生論ノート』
p.242
作品づくりに没頭すれば、他人との距離が生まれ、おのずと比較から遠ざかることになるだろう。創作を通じて培われた自信や個性は卑屈さを癒やし、個人的な満足をもたらすこともあるだろう。これは嫉妬の母である比較を拒絶し、おのれの特異性の到達する道である。
とは言え十全とは言えない。芸術家などは嫉妬心との戦いに明け暮れていたりもする。もっと見込みが高いのは「何もしないこと」だが、身もふたもない話ではある。
徹底的に比較してみる。ある部分にだけ特化した比較こそが、嫉妬心を膨らませているならば、もっと徹底的に比較してみる。
ねたましく思う優れた隣人をよくよく観察すると、思いもしなかった一面が見えてくるものだ。